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2007年12月20日

金金会の久米島旅行(終)

 翌日の朝はみんな早起き。

 昨日と同じように曇り天気は続いていたが、雨が降り出すことのない日だった。
 朝早くから、ホテル内のショートゴルフコースにぞろぞろと集まり、我さきに自慢の腕を披露し始めた。

 一周30分程度で回れるコースで、長くて80ヤードほどの全9ホール。

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▲チップインを狙う慎重なショットのOK

 昨日の疲れをまったく感じさせないくらいに元気である。続けて2ホールも回る強者もいた。

 とくに力の入っているのは、MYとCK。昼食を賭けてのマッチポイントで朝から大騒ぎしていたようだった。誰が勝ったのかは伏せておこう。

 午前中は、まだ見学していない名所巡りが組み込まれた。
 OKがマイクロバスを手配し、老人クラブ御一行様はホテルをスタートした。

 宇根まで足を伸ばし有名な大ソテツを見学。

 大ソテツは宇根の喜久村家の庭園に植えられた樹齢300年以上といわれるソテツで、高さ6メートルと4メートルの2株があり、2000以上の枝を持つといわれている。

 両腕では抱え込まれない大きな幹で、表面はゴツゴツしている。

 私たちが目にするソテツはせいぜい高さ1〜3メートルくらいのものが多いなか、何という大きさだろう。まるで始祖鳥や恐竜が生きていた何千万年も前にトリップしたような感覚だ。
 
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▲巨大なソテツと「せいくらべ」

 久米島は不思議な島である。
 
 島の南部のトゥクムジ公園は、海中から巨大な岩群が数十メートルそそり立つ断崖の場所。

 火山活動のスケールの大きさを感じさせる壮大な景観はすばらしい。近くには鳥のクチバシを思わせるような「鳥の口」と呼ばれる奇岩があり、展望台からの見下ろす眺めは見ごたえがある。

 冬にはザトウクジラが泳いでいるのが見られると言うので、頂上の展望台まで登ってみた。細い山道は木立が茂り、ゆるやかな丘を登っていく感じだったが、途中から急な階段があらわれ、仲間の半分は諦めて座り込んでしまった。息も絶えだえに登りきった展望台は、細い岩の先に建てられ、三方は絶壁で、その高さには足がすくんだ。

 私は座りぱなしだった。

 目の前に広がる海は靄がかっていて遠くの水平線まで薄暗く、水墨画の世界に居るようだった。

 もちろん、5月のこの時期では鯨を見ることは叶わなかった。

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▲展望台は細い岩の頂上にある。腰が抜けるような感覚を愛想笑いで誤魔化す。

 公園の散策のあと、久米島自然文化センターを見学してホテルに戻った。

 夕方に予約してある那覇行きの便までまだ時間があったので、各々、部屋で自由時間とした。

 テレビでは沖縄出身のプロゴルファー、宮里藍が優勝に挑んでいるシーンが流れていた。(彼女が初優勝した時のだった?)

 ……

 久米島から那覇空港までの機内の30分は、軽い疲労感と安堵感で一杯だった。空港到着の時点で今回の久米島の旅は終了した。


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【語句】
 久米島の西方には九州からから連なる霧島火山帯が走り、その影響を受け、島の南部に見られる奇岩などが、素晴らしい景観となっている。奥武島の畳石も火山活動の結果といわれる。

2007年12月12日

金金会の久米島旅行(5)

 
 二次会で使ったスナックは店内が広く、カウンターのほかに10人ほど座れる団体席と、4〜5人用のシートが3席あった。

 私たちは大人数なのでもちろん団体席。

 シートとシートの間には上江洲家で見たヒンプン※のような(?)衝立が立掛けてあった。お客同士がお互いに気兼ねなく騒げるようにという配慮からだろう。

 いつもの二次会のように、大騒ぎしながらシートに座ったが、MNはすぐにカラオケにかかった。 昼間の疲れと、先ほどまでの居酒屋での泡盛の酔いがピークに達したのだろうか、顔を赤くして薄め目がちでひとりで悦に入っている。

 私たち金金会の仲間は、いつでもすぐにその場でノリに入れるタイプの人が多いようだ。
 カラオケは勿論、お喋りや雑談に各人が思い思いに楽しみ、酒席はあくまでも一緒に騒ぐための手段のようだ。仲良しクラブの延長のような飲み方である。

 騒いでいるうちに、女性陣が出勤して来て、私たちの席の座った。

 何か面白い雰囲気だ。

 ママをはじめ女性の方全員が、健康そうに「まーぁるい」顔をしていて、 体重も結構ありそうだ。

 それに気づいたTYが
 「久米島では○○の女性の方がもてるか」と声をかけた。

 「そうよー、私たち○○が島一番の人気者だよ。こんなタイプ好きでしょう」と即答。

 「は、はー」とTYは大声で笑って誤魔化したが、TYの好きなタイプは○○だから、満更でもなさそうだった。

 最後に現れたは一番若い(だろう)22、3歳くらいの?ちゃん。
 他のメンバーとはちょっと異なり普通(?)タイプ。

 「メンバーの皆は○○でモテモテというから、Kチャンは若くても、みんなより痩せているからモテないだろう」

「モテるよー。みんなは久米島の人だけど、私は本島の浦添市から来ていて、島以外の人は珍しいみたいで、一番のモテモテのアイドルだよ」

「アガァー※、まいった!すごい自信とKY※だ」

 TYも私も「この島の人たちは○○タイプが好きだから…全然相手にされないさー」と言う言葉を期待していたのに。

 「島の人ではないのかい!」

 それ以上に話しが先に進まない。

 テンポのかみ合わない出会いだった。

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▲昼間に疲れもみせず、カラオケで自慢の唄を披露するOAとOJ

 楽しい時間も一瞬にして経ち、私とUYは宿泊先に帰るため、仲間たちより一足早く店を出た。
 途中に、ビニールトタンで屋根だけを庭先に伸ばした「そば屋」が目に付き、軽く腹ごしらえでもと中に入った。

 「そば」はシンプルで三枚肉と蒲鉾の具が薄味のだし汁に入っていた。

 「そば」を食べ終わったあと、千鳥足でレジカウンターの方に向かったUYは、怪訝そうな顔で席まで戻ってきて

「料金はすでにいただきました」

 と言っているが「君が支払いをしたのか」と私に向かって言った。


 大笑いだ。

 「アイヤー※。そばを注文した時、君(UY)が二人分前払いしただろう『ごちそうになります』と俺が言ったのも覚えていないのか」

 「あれ!そうか、僕が支払ったのか。覚えていないな。君が支払ったのだと思ったよ」

 なかなか憎めない「八時半の男」※UYだ。

 朝の大雨の那覇空港での天気待ち。久米島一周の島めぐり。居酒屋での夕食と金金会の模合。二次会のカラオケ大会。そば屋でのUYの「八時半の男」ぶり…と一年分の楽しさを一日で一挙に味わったような気がした。

手(グー)(6)


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【語句】
 アガァー・アイヤァー=(沖縄方言)感嘆詞:本土の「ワーォ」のような使い方をする。
 

2007年12月07日

金金会の久米島旅行(4)


 久米島の久米仙を出たあと、真謝港※の近くの海岸埋立地に立地する海洋深層水、海ぶどう※栽培施設に見学のために寄った。

 10棟近くの大きなハウスの中に数多くの大きな水槽が、海ぶどうの養殖の為に稼動している。

 水槽には海水をかき回す装置が付いていて、常に新鮮な海洋深層水に酸素を供給するように、鳴門海峡の渦のように廻っていた。

 水槽の中に約5〜10センチ位の海ぶどうの幼芽がぐるぐる廻っていて、日に日に成長していくとのことである。

 海ぶどうは最近、沖縄観光のお土産品や健康食品として、人気のある食品であり、県内でも家庭の食卓に頻繁に上るくらいの人気食品である。
 私たちもよく居酒屋で食していて、アーサ※と並ぶ人気海草である。 
 
 薄暗い曇り日ではあったが、ハウス内はすごく明るく、中では10人ほどの職員の方たちが、忙しそうに働いていた。

 私たちが、ぞろぞろと入っていくと、最初は怪訝そうに見ていたが、いろいろ質問をすると、海洋深層水の話しから、海ぶどうのことまで詳しく説明してくれた。

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▲明るい採光の中、係員の説明を聞く。


 久米島の深層水は日本でも一番深い深海※からくみ上げていて、沖縄県も研究施設※を設立しいる。今後、希望の持てる産業のひとつであるようだ。

 海洋深層水の豊富なミネラルで育てられた海ぶどうには、ビタミン類も多く健康にもいいとのことである。
  
 海ぶどうを試食させてもらった。 

 取たての海ぶどうは青々として瑞々しく、コリコリとした口当たりはすごく新鮮で、海水の塩分が適当に混ざり、パック詰めされたものだけしか食べたことの無い私には、海の(磯の)香が懐かしく、おいしさが数倍に感じられた。

 

 その後マイクロバスは、奥武島を一周して、久米島一の繁華街を通りホテルに向かった。

 ホテルではOKの手配ですでにツインの部屋が用意され、割り当てられた部屋で、朝からのハードスケジュールで疲れた体を休め、汗を落としたり、さっぱりとした服装に着替えて、夕食までの静かな時間を過ごした。

 夕食はホテルの道向かいにある居酒屋で、模合を兼ねつつ行った。当日は土曜日だったため、ホテル指定のその居酒屋は満杯気味。老人会(?)の集団に畳席を独占され、ほかのお客は不満だったのではないだろうか。

 仲間のKMは奥さんと孫を連れてきていた。孫はMちゃんといい、お爺さんっ子だという。KMもメールのアドレスに「−JIJI(じぃーじぃー)」と設定するくらいの好爺ぶりである。

 ともに夕食を済ましたが、まだ保育園児のMちゃんにとって、お爺さんの仲間たちは、みんな「年寄りなんだ」みたいな表情で、しぶしぶ食事をとっていたような気がした。
 
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▲KMと奥さんと孫のMちゃん。

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▲昼間の疲れはやっぱり泡盛で。


 朝からの忙しさと、旅の開放感で、泡盛、ビールを前に、オーダした海産物、チャンプルーなどの夕食は、一瞬にして不足がちになり、幹事のOKはあたふたするばかり。

 「旅の恥は掻き捨てて」の言葉は、私たち仲間を指す言葉なのではと思うくらいの騒がしさと食欲である。

 食後、例のごとく二次会を行うことにした。

 久米島での初めての二次会と言うこともあり、全員が参加者したが、約束のお店に行くと、ママらしき女性がカウンターの中で洗い物をしている最中だった。

 店はまだ正式にはオープンしてなかったが、わいわい、がやがや騒ぎつつソファー席にすわった。

手(グー)(5)


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【語句】
 久米島町は平成14年の合併までは、島の西側の具志川村、東側の仲里村の二村からなり、ちょうど島の半分づつを分けるように行政が置かれてていた。真謝港は仲里の主要な港。

 海ぶどう = クビレツタ
 アーサ  = (方言)ヒトエグサ
 沖縄県海洋深層水研究所 =
  沖縄県久米島町真謝。港近くの埋め立て地に海洋水資源の利用目的に
  平成12年設立。水産物、農業における利用研究が進んでいる。

2007年11月24日

金金会の久米島旅行(3)

 勇壮な久米の五枝の松を見学したあと、宇江城岳※を右手に見ながら、島周りを続けた。

 一周道路をしばらく進むと大量の水を流れ出る堂井(ドーガー)と書かれた樋川※の横を通った。

 宇江城岳の地下水を湧水としている樋川だ。朝からの雨のために水量が多いのではと思ったが、日頃から水量は多いという。

 その堂井の近くに「葛v米島の久米仙」は立地している。

 久米島の久米仙は県内でも知られた蔵元で、昔から酒所と知られている久米島で良質の泡盛を生産している。

 泡盛は仕込みの水と麹菌の性質によってその持ち味が決まると言われていて、良質の水を必要とし、名の知れた酒造所は水の得やすい所や水量の多いところに立地するのが一般的であるようだ。

 私の友人TYが代表する「神村酒造」も本島北部の山間地、うるま市の石川に生産工場を置き、他社には見られない樫樽を用いた熟成方法など、独自の仕組みで醸造(暖流・守礼・他)している。
 
 2社に共通するのは、周辺には木々が生育する地形や良質の水が得やすい環境にあるようだ。

 工場の後ろ手に聳え立つ宇江城岳は、山の半分以上が雨雲で覆われ、曇り日の薄暗い天気のため、神秘的で荘厳な一角に酒造所が立っているような雰囲気だった。


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▲久米島の久米仙の酒造所と後方に聳え立つ雨雲に覆われた宇江城岳。


 私たちが訪れたその日は、ちょうど土曜日にあたり、仕事休みの日にだったため、生産の全工程を見学することは出来なかったが、長期貯蔵庫を見せてもらった。薄暗い蔵の中には大きな陶器の甕が整然と並べられていた。

 3年目からは古酒として市場に出荷するが、古酒として熟成するまでには長い時間を必要とし、想像する以上に管理には細心さと苦労が伴うだろう。

 工場内入り口の横手には訪問者のための売店があり、泡盛類を揃えて展示している。また3〜20年熟成の試飲用の古酒も用意されていた。

 泡盛が大好きな仲間のMNは、古酒の味見に一生懸命。おそらく用意されている古酒の各年代の全てを試飲したのではないだろうか。

 女性の若い店員さんが「金金会の皆さんですよね!」と私たちに声をかけた。 「皆さんにお土産がありますから」と一人当ての袋を人数分渡してくれた。中には720ミリリットル泡盛2種セットが入っていた。

 前日に浦添営業本部(支社)から、私たちが工場見学に来るとの連絡があり、お土産を用意したとのこと。

 今回の旅を企画したOKが、久米島行きの話を前もって支社長に伝えていたおかげである。

 久米島の久米仙を出たあと、旧仲里村の海岸側まで一気に向かった。

 海岸の方から見る山あいには、工事中の高架橋の橋桁が見られ、近々には新しい一周道路が開通するようだ。

 宇江城岳を中心とした山手のほうは、本島の山原(ヤンバル)の景観に近く、雨雲に覆われた山々が瑞々しく感じられた。




 
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【語句】
 宇江城岳=標高約310メートル。ほぼ中央部に位置し、頂上には宇江城城跡が立つ。
 井   =(カー)井泉。沖縄では掘り込み井戸も、井泉もカーと言う。
      (河川=カーラ)
 樋川  =(ひがわ・ヒージャー)一般的な川ではない。
       岩の隙間などから流出する湧水。琉球石灰岩は雨水の浸透が早く、水を通しにくい下層の島
       尻層との間に水流が出来ることが多い。流出口を樋川(雨樋のように流れ出る)という。
       首里城、第二門の瑞泉門の右手にある龍樋(りゅうひ)も樋川である。
 山原  =(ヤンバル)沖縄本島北部を指す言葉。
      本島は北から山原、中頭(ナカガミ)、島尻(シマジリ)の呼称で呼ばれている。


2007年11月19日

金金会の久米島旅行(2)

 
 空港到着後、食事などの休息を済まし、OKのガイドで最初に見学したのは、有名な「上江洲家」だった。

 上江洲家は国指定重要文化財で、今から250年(1754年)も前に建てられた旧家。

 珊瑚石灰岩の石垣と福木に囲まれた屋敷で、風水思想に基づいた屋敷構えを残していて、屋敷囲の石垣が見事なため「石垣殿地」※とも呼ばれている。

 500坪をこえる屋敷の入り口にはヒンプン※があり、奥には、縁側の軒先(雨端)を長く伸ばす、昔の琉球建築の様式で建てられた、素晴らしい赤瓦屋根の木造平屋の母屋が残っている。

 母屋を中心に蔵や豚舎などが建っていて、母屋の構造には、チャーギ※が使用され、建築当時では県内でも有数な大きさの住宅だったのではないかと思う。

 
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▲むさくるしい集団は大騒ぎしつつ、旧家の「上江洲家」を見学。

 私たちが地方(田舎)に住んでいたころは、同じ風水の考え方で配置された家屋が多かったが、屋敷は大きくても100坪、屋根は茅葺、住居の柱は松などを用いていたのが多く、良くて杉材だったように思う。軒を支える柱も直径10センチ程度の木を、荒削りのまま直接用いているのが一般的だった記憶している。

 都市部では想像もつかない開放的で合理的に作られた、琉球建築の粋を集めた屋敷は見ごたえがあり、再び訪問する機会があれば、晴の日に行ってみたいと思う。
 夏の入道雲に、美しい赤瓦の家屋と、きちっと組みあげられた石垣とのバランスは、明るい日差しに美しく映えるだろう。

 屋敷には、当家のご主人と思われる方がいて、私たちにお茶をだしてくれた。

 私たちが首里から来たと言うと、その方は、私たちを「首里士族の末裔」とでも思ったのだろうか、敬語で家屋の説明をしてくれた。

 ひととおり見学を終えた私たちは「むさ苦しい集団」を快く迎えてくれたご主人にお礼をいって、上江洲家を後にした。

 小雨の降っている中での見学ではあったが、今では首里・那覇にはほとんど残っていない琉球建築の粋を、遠く離れた久米島で見ることができ、直に手に触れることができたことは、歴史の好きな私には、何ともいえない満足感があった。

 しかし250年の長い年月のあいだ風雨にさらされ、チャーギの堅い用材でさえも傷みが見られる。保存するには大変な労力が必要とされ、管理する戸主の気苦労も多いだろう。

 …

 OKはそのあと、近くにある「五枝の松」に案内した。

 久米の五枝の松は国指定天然記念物。

 高さ6メートル、幹の周りが4メートル以上もあるとても大きな琉球松※の木で、現在のは二代目になるという。

 琉球松は比較的、上方に伸びるのが一般的と言われているが、五枝の松は四方に波打つように、地面すれすれに枝を伸ばし、まるで盆栽の松をそのまま大きくしたような形で、伊平屋島の念頭平松とともに二大名松といわれている。

 沖縄本島の松の木が、沖縄戦のあと建築用材や煮炊き用の燃料に使用され、歴史有るものが少ないなか、150年近くも大切に保護されていることに、驚きを隠せない。


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▲曇り天気と同じように、空港での「天気待ち」で気力を使い果たし、表情も暗い御一行様。


 1700年代には、琉球王府の三司官である「蔡温」が林業政策を打ち出し、本島では山には松の苗が、道筋には木陰を作る松並木が植樹されたと言われるが、その植林政策が、この久米島で実を結んだ結果であろう。

 木の周辺には柵が張りめぐらされていて、直接に手を触れることが出来ないように、また地面に浮き出た松の根が、見学者に踏みつけられて傷つかないように保護されている。

 近年、沖縄本島の松の木がマツクイムシなどによって、成長を妨げられたり、枯れたりしている現象があり、その害虫の被害が五枝の松まで及ばないことを願っている。

手(グー)(3)



 

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【語句】
 殿 内 =(どぅんち)士族の親方(うぇーかた)の屋敷。
 ヒンプン=屋敷の正面の門と母屋とのあいだに設けられた衡立て。
       屋内をのぞかせない目隠しの機能と悪霊を防ぐという役割もある。 
 琉球松 =沖縄県の県木。琉球松は見事な枝ぶりと黒味がかった美しい色
       で知られ、多くは琉球王府時代に植樹された。
 チャーギ=(方言:イヌマキの木)琉球王府時代、家屋にチャーギを使用
       することは士族にしか認められていなかった








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2007年11月16日

金金会の久米島旅行(1)

 久米島は那覇市の西方100キロほどにある島で、琉球王国時代から中国に向かう船の寄港地として知られている。本島(那覇)から中国福建に向かう航路にあたり、季節風などの風待ちのために停泊した重要な港があり、奈良時代の文献にも「球美」と表記されるほどの知られた島である。
 
 2年前に金金会は久米島に一泊の旅行をした。

 本島北部の名護では年に2、3回ていど、一泊での模合(もあい)を開いているが、本島から離れ、飛行機を利用する旅は初めてだった。

 その企画を提案して、細かい日程を組み立てたのはOKである。   

 OKは在職中に久米島にある某リゾートホテル総支配人の経験があり、仲間と一緒に、もう一度美しい島に行って見たいとの想いから計画をたてたようだ。

 5月の第二土曜日の出発だった。

 当日は那覇も久米島も朝からの大雨で、1便は欠航し、私たちの乗る予定の2便も天気待ちの状態だった。

 1時間くらい、空港の待合室でわいわいと騒ぎながら、天気が回復するのを待って搭乗したが、滑走路の端でも久米島の天気が回復するのを待つと言う最悪の状況だった。

 雨雲で覆われた地上を離れ、3000メートル位の上空に達すると、5月の太陽はまぶしく、初夏なのだと感じられたが、窓から見えるのは雲海ばかりで、久米島の天気のことが気になっていた。

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  久米島までは約25分。

  島影が見え、飛行機が着陸体勢を取り
  始めると、はるか下方に、ほんの数セ
  ンチくらいの大きさに見える船が航跡
  を残して、私たちとは逆の本島の方角
  に向かっているのが見えた。  
  上空から見る海は静かで、白波もあま
  り立ってないように見えたが、当の船
  は大波を突っ切っていたかも知れない。

  島の上空には雨雲は見られるもの、
  ちょっと霞むくらいの天気に回復して
  いて、那覇での大雨も嘘のように思え
  た。

▲マイクロバスに乗り、島廻りに出かける金金会の仲間たち。 

 離島便に乗るのは久しぶりのうえ、短い滑走路を使っての着陸に、緊張していたのは私ひとりではないだろう。ロビーに出たときに地面に足がピッタと張り付くような感覚には妙な安心感があった。

 待合室に着いた時、OKが私たちのためにマイクロバスを仕立てて待っていた。

 OKは前日に一人で飛び、ホテルの確認から、私たちを案内するコースの手配までを済ませていた。

 そのうえマイクロバスはホテルの送迎専用車であったが、私たちの島内一周観光のために、交渉して借りきっていた。

 昼食と休息をかね空港の近くの(久米島)そば屋に寄り、そのご島内一周の観光へとスタートした。

 
 OKがガイド役をつとめ、上江洲家、久米の五枝の松、泡盛の葛v米島の久米仙、海ぶどう養殖場、大ソテツなどを見て回り、最後に畳石で知られた奥武島への橋を渡った。島を軽く廻り予約してあるホテルへと向かった。

 ホテルでは、ツインの部屋がすでに割り当てられていた。

 私たちの利用する部屋は、赤瓦の連棟式風に建てられた棟の2階で、テラスからは、芝生が敷き詰められたショートのゴルフコースや、白く彩られたプールが望まれ、リゾート気分を十分に満喫できる素晴らしい設備であった。 
 窓からは近隣の青々とした木立が眺められ、雨上がりの涼しい風が部屋には満ち溢れていて、少し離れたビーチの波音が聞こえてくるくらいの静けさだった。

 OKが組み立てた旅の計画は万全であった。





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△宿泊したリゾートホテル(ホテルの案内ネットより)

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語句
 球美=八世紀の「続日本紀」に、南島の「球美」の人が来たと記されている。
 模合(もあい)=頼母子講。沖縄方言ではムーエー、ユーレー。
 金金会=右記参照

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2007年10月23日

「八時半の男」たち

 金金会には『八時半の男』が、三人もいる。

 『八時半の男』…。

 私たちの年代だとすぐに頭に浮かぶ。

 1962、3年ころに活躍した、巨人軍の宮田征典(ゆきのり)氏のことである。宮田氏は投手として活躍した野球人で、コーチや野球解説者としても名の知れた方であるが、現役当時にはリリーフとして登場する時間帯が、午後八時半前後であったため『八時半の男』と呼ばれていた。

 同じ『八時半の男』の愛称を貰いながら、宮田投手はその時間帯から「大活躍」。

 一方の私たちの仲間たちは、その時間帯から…。

 活躍どころか、記憶喪失になってしまう輩たち。

 商事会社の代表をしているUY、元教育者のKM、個人企業家のMNの三人のことである。

 貴重な愛称を彼らに「授けた」のはTY。※

 記憶を失う原因(?)は
 
 ■仕事上の付き合いで酒歴が長い。
 ■肝臓のアルコール分解酵素が不足がち。
 ■酒が好きで、晩酌を欠かさないほどのたんなる酒ヌマー。※

 三者三様である。

 二次会をセットする八時半ころには、酔いが一挙に回り、顔を真っ赤にした状態。

 三人とも、仲間たちと一緒に飲むことが好きで、二次会にも参加して、カラオケやお喋りと騒ぎぱなっしである。

 その結果は明白。

 翌朝には、気力と体力を使い果たし、前夜のことは「うろ覚え」の状態、むしろ覚えていないといった方がいい。

 
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▲『八時半の男』の大御所、MN (ぼかし処理)

 

 『八時半の男』の呼び名は好きである。

 その響きは、他人の聞こえもいいし、夢もある。

 「素晴らしい何か」を期待させる愛称である。



 『八時半の男』と名づけられた三人とも、憎めない大切なメンバーであり、お互いに友人や知人も多く、自分の生き方をしっかり持っている。

 つねに、生き生きとして、会の中心的な役割を果たす存在感あふれる仲間たちで、個性的な好爺たちであり、一人でも欠けたら「会」が成り立たない。

 みんなで楽しくお酒を飲み、絆を深めたいと思う一心から、最後まで付き合い、結果的には記憶をなくしているのだろう。
 
 しかし、最近は拍車をかけたように、めっぽう酒の量が減ってきているように思える。飲み切っていた泡盛を、残すことが多くなっている。

 「酒はほどほどに」と、ひかえている訳ではなさそうだ。 

 名づけの親、TYも、シルバーエイジの私たちの「お互いの健康のこと」を考え、間接的な表現として、夢を与える『八時半の男』としたのだと思っている。 

 『八時半までの男』と、呼ばれるなと気遣かっているのだろう。

 ……

 ちなみに、TYは、この私には「悪名」をつけた。

 『一分間黙ったら死ぬ男』

 泳ぎ止まると呼吸困難に陥り、死んでしまうマグロと同じで、喋り止ったら死ぬという。夢のある『八時半の男』とは真逆で、日ごろの「悪爺ぶり?」を戒めている呼び名にしか受け取れない。

 しかし、私自身は不名誉と思っていない。その言葉の真意は、

 「気遣いの男!」「空気の読める男?」

 など、大きな意味を込めて、TYは名づけたと「前向き!」に解釈している。しかし、TYが思っているだろう「空回りすぎ…」は分かっている(…つもりである)。

  


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『語句』
 酒ヌマー(サキヌマー)=(方言:酒飲み、のんべー)

 

posted by 利爺 at 09:00 | 沖縄 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) | 模合で集まる金金会の話

2007年10月03日

金金会は40年の歴史。

 毎月第二金曜日になると、まるでデートの待ち合わせをしているかのように、約束の居酒屋にいそいそと出かける。

 ほぼ仲間全員が参加する。

 都合で休んだら仲間はずれになったような一抹の不安を感じるし、その日はどんな話で盛り上がったのだろうと気になってしまう。

 毎回、同じ仲間がこれだけの長い年月、いろいろなことを話してきたのに、月に一度の模合(もあい)で久しぶりに会ったときには、新しい話が次々に出てくる。

 最近では思い出話が多く、とくに高校生のころのことが話題になることが多いように思う。それだけ私たちが年を重ねたということなのだろうか!

OYの『同世代回顧録…他人の出来事』には(※)

『私たちのクラスは曲者(くせもの)揃いで、先生方のなかにはビビッた方もおられたとか。私の独断で曲者を認定すると…(略)』

OK、KK、FY,MTなど9人もの名前をあげている。

(私はOYとはクラスは別であるが、認定のなかにOY本人の名前が上がってないことに承服できないひとりである)

 曲者に認定された半数が金金会の今の仲間たち。

 先生方をビビらした仲間たちもすでにシルバーエイジの年代。
角が丸くなって優しくなり、家に帰れば「孫が甘えてくる良きお爺さん」になったようにも見えるが、別の見方をすれば、騒ぎの形が変わったに過ぎない。

 当日にはゲストがよく顔を出す。

 同期生が参加することがとくに多く、年から年じゅう同期会をしているように騒いでいる。

 話す声が大きく、そのうるさいことは半端でない。他のお客に迷惑をかけているだろう。

 私もその中のひとりではあるが、皆、家庭や仕事のことでストレスがたまっているわけではないと思う。

 同期生と一緒に飲み、おおいに語るという互いの優しい気持ちの現われだと信じている。



※「『同世代回顧録…他人の出来事』=平成19年9月30日ブログ参照

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▲店の好意による大食宴?

2007年10月01日

模合のため月1回集まる。

 毎月第二金曜日に集まるので、二回目の金曜日という意味で「金金会」という。

模合(もあい)に集まった私たちには、

● 大いに酒を酌み交わし青春(?)を謳歌する。
● 酒の上でのトラブルは起こさない。
● 片意地を張った論争はしない。

の暗黙の了解があり、世に言う「酒は百害…」の害は未だ経験したことはない。

 参加者全員がすべて同じ立場であり、「特別な扱いはない」ことをも重要視している。

● 一次会は幹事が場所の予約から仲間への連絡を行う。
● 幹事は持ち回り制。
● 模合金・飲食会費は定額。
● 時間は19:00開始。
● 基本的に二次会をする。
● 二次会の費用は飲食会費とは別。完全割り勘の前払い。
 
 沖縄県内では模合が盛んである。
 一人で2、3カ所に参加している人も珍しくない。模合の種類には親類、従兄弟同士、同級・同期生、スポーツや趣味などの仲間、会社の仲間たちなどなど、親睦を中心としたのが多く見られる。

 模合はもともと相互扶助として、今から250年くらい前の蔡温(さいおん)の時代から代々伝わってきたといわれるが、現在ではお互いのコミュニケーションを図る目的が大多数。

 模合金も2、3千円から1万円くらいが平均だろう。5年や10年と続いている模合もあるが、わずか1年たらずで解散するグループも多い。

 私たちの模合も同期生の親睦が中心で40年以上も続いている。

 シルバーエイジの私たちは、友人同士が集まることの嬉しさや、有り難さを身にしみるほど感じている。

 とくに互いの存在がうれしく、気の置けない友人たちである。
 互いに気を使ってくれることが多く、絆は親・兄弟以上と言ってもいいくらいに強い。

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▲ゼブラ縞。残り毛も気になる金金会メンバー(ぼかし)

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『語句』
 模合(もあい:沖縄方言ではムーエー、ユーレー)= 頼母子講。
 蔡温(さいおん:人名)= 18世紀の琉球国の三司官(宰相)。



2007年09月30日

友人OY氏、自分史をだす。

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    『同世代回顧録…他人の出来事』

    判型 = A5判
    頁数 = 136頁
    初版 = 平成18年10月
    2刷 = 平成19年 6月 




 過日、同期生のOYが自分史を編纂して出版した。

 OYは高等学校の同期生で、卒業以来、月に一度開かれる模合(もあい=頼母子講)の仲間で、付き合いも結構長いものがある。

 私たちは昭和20年から21年生まれ、団塊の世代の一歩手前にあたる年代で、すでに定年を迎え悠悠自適の生活を送る者や、現役でバリバリの者もいる沖縄県に住むシルバーエイジ、14人の仲間。

 OY自身「笑いの生産者」であり、酌み交わすたびに「収穫した作物の出来、不出来」に次々に笑いが渦巻く。彼独特の雰囲気と話のテンポにメンバーは常に翻弄されつつ癒されてもいる。

 自分史のタイトルは『同世代回顧録…他人の出来事』としている。

 彼の人生の記録を延々と書き綴るかわりに、生きてきた世相やその時代のことを2〜3行ほどの短い文章で表現している。

 『ガキ仲間たちの中でも、権力闘争があって、ランク付けをした。一番強いのは一番オーヤーとして呼ばれ、ヨーベー(弱者)たちから持てはやされた。(略)』

 本を手にとる私たちの記憶を呼び起こす短い文章が書かれているだけ。全部で300項目くらいの「思い出の整理箱」である。

この2〜3行の短い言葉がお互いの「思い出」の軌跡をたどる助けになっている。

 OYの『同世代回顧録…他人の出来事』をもとに、14人の青春期を思い起こしつつ、私たちグループの「今」と「過去」を日記風につづっていこうと思う。


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『語句』
   オーヤー=(方言:喧嘩が強い) 
   ヨーベー=(方言:弱い者「泣き虫とは少しニュアンスが異なる」)